絵に描いた餅だけ食べたかったけど今は棚からぼた餅でもいいと思ってる

節度を守らず書きたいことだけ。汚い感情も整理して書いておく自分のためのブログ。

新胡桃さん『星に帰れよ』はゴリゴリの哲学

めちゃくちゃ面白いから読んでほしい、読み切ってほしい。その一言に尽きる。

晦日からずーっとテレビ→ネット小説→テレビ→Twitterしてたら目がやられて頭が痛くて眠れなくなってしまい、そういえば「明日は帝劇に行くから早めに寝ないと」とか思わないお正月久しぶりだな、と思うなどしました。

眠れないのは困るけど頭痛薬を飲んでもどうせ20分は痛いまま、と思ったら神にでもすがりたくなりまして、開いたのが『星に帰れよ』でした。だって普段聴いたら絶対安心して眠れるSixTONESのANN聴きながらでも頭痛いの治らなかったんですもん。

というかたぶん単純に私活字中毒なので目を酷使しすぎなんでしょうね。四六時中何か考えてないと気が済まないので夜も寝付きが悪いんですけど、SixTONESのANNはサイコーに眠れる。耳をすましたら絶対徹底的に人を傷つけたりしない平和な世界が広がってるとこの1年で不思議と信じられたので。もうジェシーが来た回とかオープニングトークで寝れちゃう。

これは全アラサーに勧めたいと思ってこの前同級生にもSixTONESのラジオめちゃ安心して寝れるよって話したけど「職場の人にも同じこと言われた、なにそのラジオ、田中くん何者なの」と言われた。その職場の人とお友だちになりたい。

以下は、今年の読書始めの一冊になった『星に帰れよ』の感想です。好き勝手に感じたことを書き散らしているので、解釈違いだったりもしかしたら誰かを傷つけるかもしれません。先に謝ります、ごめんなさい。

<p>
星に帰れよ

星に帰れよ

</p>

■あらすじ

16歳の誕生日、深夜の公園で真柴翔は"モルヒネ"というあだ名のクラスの女子に会い――。高校生達の傲慢で高潔な言葉が彼らの生きる速度で飛び交い、突き刺さる。第57回文藝賞優秀作。
河出書房新社のHPに載ってるあらすじ)
なんかもうあんまりにも簡潔すぎて「いいから読め、1時間もかからないかもしれないから」とすごい圧を感じる、逆に。

そこのリンク先からもう少し詳しいあらすじが載ってるページがあったのでそこのやつコピペしますね。

■あらすじ②

第57回文藝賞優秀作受賞者は新胡桃(あらた・くるみ)さん。16歳の高校2年生です。文藝賞史上2番目に若い受賞者となります。受賞作『星に帰れよ』で描かれるのは、作者と同じ16歳の高校生3人の世界。
家庭に問題を抱えながらも、クラスでは明るい「変わり者」キャラとして振る舞う、「モルヒネ」というあだ名の女の子。その親友で美人の麻優(まゆ)。その麻優に恋するサッカー少年・真柴(ましば)。夜の公園で、麻優への告白の練習をしているところをモルヒネに見られた真柴が、翌日思いがけず、その麻優から告白されます。しかし麻優は「私のこと好きっぽいから」という理由で告白してきたらしく、真柴の名前さえあやふやな様子なのですが──。


こんな話。こんな舞台設定。新胡桃さんがもし書き続けたら、私世代にとっての綿矢りささんのような、ある種の指標となるような作家さんになるんじゃないだろうか、と思わせるデビュー作でした。住野よるさんの時も思ったけど、書き続けて売れてほしい。


これは、ものすごく荒削りなのですが不思議と読み切らせるパワーに溢れた小説です。

(ここまで下書きしてからMIU404→ANN→オンライン通話参加して深夜3時を過ぎました。知ってる人達の話をずーっと聞いてられるって幸せ空間だな?オンラインサイコーか?と思うなどしました)

はい、話を戻しますと。

この小説は思考のエッセンスがゴリゴリにそのまま入ってきててそこがすごい。
ふわっととろけるかき氷とかが売られてる横で、冷凍庫で製氷された氷をそのままグラスに入れられて、「食べられますか?」ってされてる本。

綺麗にシロップがかけられて、いつのまにかするする食べ終わって、染み渡るように「美味しかったなあ、これはいちご味のかき氷だったなあ」ってなる小説、あるじゃないですか。
(テーマに一貫性があって、自然な調和が取れていて主題もなんとなく伝わるタイプの小説)

『星に帰れよ』はほんとにマジで、荒削りにも程があるんですけど、それでも読ませる勢いと切実さが感じられて、読むのは1時間もかからないのに、解釈に時間がかかるタイプの小説で好きだなあと思いました。

頭痛くて泣きそうだったんですけど、モルヒネが真柴に激昂するシーンで普通に泣いちゃった。ガラスのような繊細さに泣いちゃいました。


これはたぶん、価値観の違いを前にしても人はわかり合おうと手を伸ばせるのか、、、いや伸ばせよ、諦めんなよ、簡単に諦めてんじゃねぇよバカかよ、という類のお話なんじゃないかなあと思うのですが、そこに星の王子さまや、夜空の星を「あれは墓場だ」という父親や、自分の軸を他人に委ねることを依存と呼んだり神への信仰と呼んだりすることや、ごくごく私的な空間でのキャラ付けが光の速さで拡散されてしまうことなど、いろんな要素をガンガン盛り込んできてとても面白いです。

同じ考え方、同じ感じ方をする人間だけで集まった星は平穏で平和だけどつまらなかったから、価値観のるつぼとしての地球に皆住んだんだ、だけど結局るつぼにはなれなくて、価値観のサラダボウルみたい。だったら元の星に帰った方が幸せなんじゃないの?だって?そんなわけあるか、あそこは墓場だよ、俺たちは毎夜墓場(星空)を見せられて地球で暮らしてるんた。

お父さんの物の捉え方を私なりに解釈するとこのような感じになります。人種のるつぼとか、サラダボウルとか習ったの懐かしいですね。

この話が出た後に星の王子さまが出てくる。フォーカスされてたのは「たいせつなものは、目に見えない」でしたけど、そもそも星の王子さまの作品内にはたくさんの星が出てきましたものね。数字こそ正義の星とか、あるいは王子さまをさんざん振り回したお花がある星とか。でもさ、たしか王子さまは夜空の星々を「この中のどれかに僕の大切な薔薇がいるんだって思ったら世界がとっても愛おしく思えてくるよ」的なこと話してたはずなんだけどな。でもそういう話じゃないし、そういう話をしたいわけでもないですよねモルヒネは。

この作品読んだあとしばらくしてから「あれ、この話でいうところの星に帰れよって、つまり死ねよって言ってるようなものでは?」と考えいたり、これは面白いわ、と思ったのでした。

だってモルヒネ、きっと何度も「お前ら星に帰れよ」って言いたくなったはずなのに、この子はついぞ言わないんです。最後まで対峙することを諦めない。その気高さ、潔癖さは愛すべき資質だと思いますし、令和特有の感覚なのかも、と思ったりしました。
蹴りたい背中』のハツはにな川のこと蹴りましたもん。モルヒネは、どこにもぶつけようがない葛藤を自己でおさめようとしています、作中。だから星に帰れよって言いません。言っても伝わらないと思うからですし、星に帰れよ、は自分が自分と人との関わりを投げ出す言葉なので、絶対言いたくなかったのでしょう、きっと矜持が許さなかった。あともしかしたら、私の悩みを本当の意味で受け止めてくれる人なんて絶対いないし、自分もそれを必要としてない、と感じていたのかな。

人には人の事情があり、世界があること。それは決して侵してはならないのだと共通理解しているものわかりの良い世代が、これから大人になっていくのかもしれないなあと思いました。

とはいうものの、何かが動いて何かが劇的に変わる話じゃないんです。自分の軸の再構築をもとめられて終わる流れはありますが。
せっかく同じ時代に生きてるんだから、混じり合ってお互い影響を与えていくような関わりを放棄するのはやめようよ、ちょっとは交流しようぜ、でも私もうまくやる方法がわからないんだ、というどっちつかずだけど必死な叫びがずーっとで、めちゃくちゃに響いてステキ、というお話。


モルヒネも代替品でしかない

真柴にとって麻優を尾行するお供は別にモルヒネじゃなくてよかったのだ、ということが終盤になってわかる、しかもたった二行、「僕の代わりに誰か誘えた?」みたいなセリフでわかるのがむごいなあと思います。

誰でもいい、モルヒネじゃなくていいし、クラスの男子でなくたっていいんだけど、何かコトを起こすときは「誰かにそばにいてほしい」、誰でもいいけど誰か。この子たちは誰でもいい誰かを常に無意識に求めていて、誰かの特別になること、代替不能になることを本質的に恐れているのかも、という空気感がこの小説にはあると感じました。本当に面白い。私の感覚と違うから、めちゃくちゃに面白い。

大きな物語の消失

動物化するポストモダン」を高校生の頃に読んだんですけど、もちろんそれは刊行されてから結構時間が経っていて、だから私は予言の書が実現した世界に生きてるのが今の私なのかもしれないなあと思った記憶があります。
たしかに社会的に大きな物語、共通認識でもって繋がっているという感覚はなく、それぞれの小さな物語でダイレクトに個人が社会と繋がっている感じというか、目の前にあるものをとにかく消費させられている感じは納得が出来ました。

そこからさらに10年近く経った今を10代として過ごしている彼らだから、もはやそれぞれが小さな物語というか、世界をもっていて、そこを起点に生きていることは当たり前になっているのも不思議じゃないなあと思いました。
真柴には真柴の世界があるし、クラスの男子にはクラスの男子の世界があって、クラスの男子にとっての世界は教室ではないんです。
考えてみれば当たり前なんですけど、でもそれを当たり前にわかっている空気感は、かなり、ギャップがあるなあと思いました。ゆとり世代とも。


◆この子たちのガラスは耐久性に優れているわけではない

いくら図太く見えようが、ガラスは叩けば割れるし圧がかかれば砕けるんです。

お姉ちゃんは千々に散りそうな心の代替品として身体を傷つけたのでは?というかこの衝動が他人に向かないこの世代、本当にすさまじいな、と思うなどしました。

BOURGEOISで京本大我さんもインタビューされてましたけど、誰もが発信者になるということは誰もが誰かを消費できる、食い尽くしてしまえることと同義なので、お姉ちゃんそりゃ恐ろしかったよなあと。

みんな自分のことはとっても大事、自分の価値観や自分の星、自分の世界は本当に大切なので、そこ以外は全部一緒、同等にあまり優先されない、思考の外に追いやってしまえるのかもしれないですね。仲間内でもネットの中でも一緒でしょ、みたいな無意識の残忍さみたいなもの。自己と他者、そして社会(他者の集合体)みたいなステップなんてなくて、自己と社会(中間層の消失)直結、みたいな。恐ろしい世の中ですね、便利ですけど、みたいな。


◆ 「子供ができた時、もし女の子なら"おバカに育て"、そう思った。女の子は美しいおバカが最も幸せ」 
(『華麗なるギャツビー』から引用)

でもね、16年も生きてたらバカなわけないんですよ、きっと浅いわけない。
と、終盤の麻優のシーンを読んで思いました。

ここは別に狂騒の時代ではないし、戦時中なわけでもない、けど心はすり減るし機能不全家族になっても誰も助けてくれない。

ここは地獄か?と、モルヒネは一度も言わないし、弱音も吐かないというか、前だけ見てる。それがとても眩しいと思うので、麻優の気持ちはわかる気がします。

何があっても、何もなくてもここが日常。ディストピアだとしてもここしか知らないから、ここで諦めずに生きていく、そんな切実さが、高潔さが、非常にかっこいいお話でした。

ので、とても良い本を読みました、という記録です。


新胡桃さんの本が出たら今後も買います。出来上がったものに好き勝手思考を巡らせてとんちんかんなことも言うかもしれません。だけどそんなの気にしなくて良いので書き続けてほしいなあと思う作家さんと出会えて幸せな2021年のスタートでした!

今年もたぶん絶対、きっと楽しい!ですし、京本さんたちでさえ運動して体力つけないと持たないとお話されてるので私もいい加減定期的な運動を取り入れようと思います(今年の抱負)

以上、とっても面白い本を読んだよ、という話でした!